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早稲田大学長江流域文化調査隊による中国四川省での発掘調査〜CAMPUS NOW 99/4月号より〜
学術調査essay〜早稲田ウイークリーより〜
早稲田大学長江流域文化調査隊の活動〜桃坪村羌族・白馬蔵族の調査など〜
早稲田大学長江流域文化調査隊の活動〜中日共同研究センターの設置など〜
『漢代の墓だった長江の「祭壇」』
『四川調査から探る中国古代文明の起源』
【中国考古学】宝トン文化 『長江上流域に見えはじめた「文明の起源」の輪郭』


早稲田大学長江流域文化調査隊の活動

(大学広報『CAMPUS NOW 97/10月号』から)


早稲田大学長江領域文化調査隊
文学部助教授・工藤元男

 四川省をフィールドとする本調査隊の考古・民族に関する調査活動は、1994年の 夏以来すでに4年を経過した。その概要については本誌97年2月号に書かせていた だいたが、今夏はさらに1ヶ月の日程で岷江上流の羌族・チベット族の調査を行った。今回の新しい試みとして四川電視台と協力して調査活動をすべて映像に記録し、それをテクストとする映像人類学の可能性を模索したことである。
 ところでこの地域の少数民族を調査するのは、ひとつは中国西北部から西南部への民族の流れを調べるためであるが、そのような日中共同の調査を通じてようやく我々も、四川の共同研究者と同じ問題意識を共有できるようになったといえる。民族の移動から中国古代史を捉えようとする発想は日本では生まれにくいが、四川省ではそれが常識となっている。昨今、地域史研究を重視する学界の研究動向を踏まえながら、我々は四川という一地域から中国の古代文明がどのように現前してくるか、という実験を試みているのである。
 また今夏は、四川聯合大学との学術協定の下に芸術学院内に“中日共同研究センター(準備室)”を設置したが、その看板上げのためわざわざ教務部長の白井克彦教授が成都に来てくださった。今後、日中共同の調査活動はまずこの研究センターで共同で企画され、共同研究者を選んで調査隊を組織し、かつ研究成果を発表していくことになるであろう。

 さらに9月16日〜22日、四川聯合大学・成都市文物工作隊の学者6名を招聘し、19日に文学部アジア学術研究連絡協議会・長江流域文化調査隊の共催による「1996年度四川成都平原における考古調査報告会」を大隈小講堂で開催した。それはこの数年来おこなってきた共同の考古調査の成果報告であるが、多数の方々が来てくださった。またその夜は大隈ガーデンハウスで文学部主催のレセプションがあり、この時も多数の方々が参会された。御協力いただいた関係各位に厚く感謝申し上げたい。




─「1996年度四川成都平原における考古調査報告会」概要

会場となった大隈小講堂には、研究者や学生、約100人が集まり、本調査の歴史的、学術的意義や話題の地域への関心の高さがうかがえました。 各講師の講演概要は以下のとおりですが、馬継賢氏は「中国では、外国との学術協力を積極的に行っています。順調に進んでいるものは、学術的に厳粛であり、互いに尊敬し理解しあっています。早大との調査もそうです。」と述べられました。

馬継賢氏(四川聯合大学文学院歴史系考古教研室 教授)
「四川平原における近年の考古調査」
近年四川省では考古学調査の増加により、多くの発見がなされている。特に三峡地区ではダム建設に伴い広範囲の調査が行われ、これまでほとんど手がかりがなかったこの地区の古代文化について、多くの知見が得られることとなった。このような四川平原における調査を中心に、近年の四川省の考古学を概説した。
王毅氏(成都市文物考古工作隊 隊長)
「成都平原における考古調査」
成都平原では1995年に宝トン遺跡が今から4000年前の古城遺跡と確認されてから、成都市文物考古工作隊を中心とする調査により、同じ性格の古城遺跡が多数発見されることとなった。これら古城遺跡の発見は成都平原の古代文化に対する認識を大きく変えるものとなり、また中国古代文明の研究にも大きな影響を与えるものとなった。 (なお、当日、王毅氏は到着便遅延のため報告会に間に合わず、江章華氏が代読した。)


江章華氏(成都市文物考古工作隊 研究室主任)
「1996年度宝トン遺跡の調査」
宝トン遺跡では1996年秋に成都市文物考古工作隊・四川聯合大学文学院歴史系考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊により中日共同発掘調査が行われた。この調査は1995年に宝トン遺跡が今から4000年前の古城遺跡と確認されたことを受け、その実態の把握を目的に行われたものである。調査では多数の遺物が出土し、当初の目的をほぼ達することができた。


『漢代の墓だった長江の「祭壇」』

(『SCIaS(サイアス) 97/10/17 号』[朝日新聞社出版局]から)



 長江(揚子江)上流域、四川省成都市郊外の龍馬宝トン古城遺跡(写真、中国と早大の共同調査隊提供)から約4500年前の祭壇が見つかったと発表された土壇状の遺構(図)について、「祭壇ではなく、2000年以上新しい漢の時代の墳墓である」とする研究結果を、中国の研究者が明らかにした。
 昨年10月の日中共同長江文明学術調査団の発表では、見つかった遺構は長辺60m、短辺40m、高さ6mの階段状の3層構造で、中から出てきた土器などから約4500年前のものとされた。調査にあたった安田喜憲・国際日本文化研究センター教授らは、祭祀の跡が、文明かどうかを判断する1つの要素と考えられていることなどから、黄河文明より早い「長江文明」の存在を裏付ける重要な証拠と位置づけている。(本誌96年12月6日号)
 長江上流域については、この調査団とは別に、中国と早稲田大学の研究者たちが4年前から共同研究を進めており、昨年11月から12月にかけて宝トン遺跡で発掘調査をした。
 9月下旬、早大で開かれた調査報告会で、遺跡で見つかった土壇を調査した江章華・成都市文物考古工作隊研究室主任は、「こうした土壇は、後漢の時代の墳墓に見られる。城の中央部にあるため重要と考え、年代をはっきりさせるためトレンチをつくって基盤層まで掘って調べたところ、漢代の土器片が出てきた」などとしたうえで、土壇を漢代の墓と判断した、と報告した。
 また、江主任ら中国の研究者たちは「祭壇という発表は中国側では一切していない」と、昨秋の発表が中国側の研究とは無関係であることを強調した。

※「この記事は朝日新聞社の許諾を受けて転載したものです。
 この記事を筆者および朝日新聞社に無断で複製、翻案、翻訳、送信、頒布するなど、著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。」




『四川調査から探る中国古代文明の起源』

(1997年10月30日付 『読売新聞 夕刊 文化欄』から)



早稲田大学助教授(東洋史学専修)・中国古代史
1950年山形県生まれ。著書に「中国古代文明の謎」、近刊に「睡虎地秦簡よりみた秦代の国家と社会」など。



  手掛かりになる禹王の伝承


  長江・黄河の文明同根?



早大調査隊が活動

 近年、中国考古学のめざましい発展により、殷王朝に先立つ文化の知見がとみに増大しているが、『史記』に記されている夏王朝の実在はいまだ証明されていない。いったい夏王朝に関する伝説は、どのようにして形成されたのであろうか。
 その謎を解く鍵が、夏王朝があったと考えられている中原(黄河中流域)ではなく、長江上流域に生活する少数民族・羌族に伝わる伝承の中に潜んでいるのではないか。そんな問題意識をもって、早稲田大学長江流域文化調査隊は、ここ数年来、中国の四川聯合大学(旧四川大学)、成都市文物考古工作隊と共同で、四川の歴史・考古・民族を総合した調査活動を続けている。
 羌族は長江上流の支流で四川省を南北に流れている岷江の上流に分布している。その羌族に禹に関する独特の伝承が残っている。禹とは五帝が統治していた神話時代に帝舜の命令で洪水を治め、後に夏王朝の祖となったとされる禹王のことである。立命館大学名誉教授の白川静氏は、仰韶文化(紀元前4000年ごろ〜)の彩陶に描かれた人面魚身の洪水神こそ禹の姿と考えている。
 『史記』など文献に見える禹および夏王朝に関する伝承は、黄河中流域の山西省南部から河南省西北部に集中しているが、四川に残っている禹の伝承は、黄河文明の単なる地方残滓なのだろうか。

先住の部族が移動
 羌族の祖先である羌人の殷代における分布は、甘粛省の大部分と陝西省西部から東は山西省南部と河南省西北部に広がっていたとされる。これらの地域の東半分は夏王朝の文化圏とされている範囲とほぼ重なるため、四川大にいた故徐中舒氏は「夏王朝の主要部族は羌である」と論じている。羌人は殷に圧迫されて西遷し、甘粛省にいた羌人はさらに西の青海一帯に移動した。戦国中期には秦を恐れてそこから南下し、そのうちの一群が岷江上流域に達したのである。
 このとき岷江上流に入ってきた羌や、羌から分かれたテイからなる部族は冉ボウと呼ばれているが、この冉ボウと禹について、古代の中国西南部に関する地誌に次のような伝説が紹介されている。
 岷江上流の集落、石紐邑は禹の生誕地である。その周辺に住む冉ボウは、罪を犯すと石紐邑の郊外(聖域)に逃げ込んだ。そうすると、役人は禹神を恐れて追うことができなくなり、罪人はそのまま、そこに三年間隠れていると、出てきても許された、と。
 一方、漢代には成立していたとされる地理書『山海経』では、テイの姿を人面魚身と記述している。前述のように、テイは羌から分かれた種族であり、この記述は禹を人面魚身の神とする仰韶文化以来の羌の洪水神話が、後世にまで継承されていたことを示している。
 ただし、禹を聖域(アジール)の神とする信仰は、羌が岷江上流域に侵入する以前の先住民・戈人の信仰に関係がある。戈人には、人は石から生まれ、死ぬとまた石にもどるという、岩石地帯であるこの地域の自然環境から育まれた特殊な観念があったと考えられる。羌人の禹に関する信仰は、この観念と結合して、禹は岩石の隙間から生まれたという神話を生み、さらに、禹は母の胸を裂いて生まれたという伝説に変化していった。
 冉ボウが逃げ込んだという禹の生誕地、石紐邑の郊外とは、そのような岩石地帯であり、そこを聖域とする習俗は、禹は石から生まれたという観念に支えられたものだったのである。
 昨年秋、早大隊は四川省成都の宝トン村で、南北千b、東西六百bほどの城址の一部を日中共同で発掘。先月十九日、早大大隈小講堂でその報告会を行ったが、この遺跡は黄河流域の竜山文化と並行する新石器時代の城址遺跡であることがわかった。とすると、この宝トン遺跡と羌族に伝わる禹の伝承とが、どうつながってくるのか極めて興味深い。
 そこで注目されるのが戈人である。彼らは羌人が侵入してくる以前の先住民とされているが、もっと早い時期に侵入し定住していた羌人だと解する説もあるからだ。その時期が新石器時代まで溯るとすれば、宝トン古城の造営者は羌人であると考えても差し支えない。そうなると、宝トンに代表される長江文化と黄河文明が同根である可能性も出てくるのだ。
 このように“羌人の移動”という視点は、中華世界の表象である禹の神話を解読し、中国の古代文明の起源を周縁の地から照射する新たな展望を示すものである。今後、このような視点から、眼が突き出た特異な青銅仮面で知られる三星堆文化(前3000年ごろ〜)や四川の先住民の文化である巴蜀文化の形成過程とその担い手などについても解明していきたいと思っている。


※「この記事は読売新聞社の許諾を受けて転載したものです。
 この記事を筆者および読売新聞社に無断で複製、翻案、翻訳、送信、頒布するなど、著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。」




【中国考古学】トン文化

(『SCIaS(サイアス) 97/12/19 号』[朝日新聞社出版局]から)

長江上流域に見えはじめた「文明の起源」の輪郭

    ●宝トン遺跡の城壁
小澤 正人(おざわ・まさひと)
  成城大学短期大学部講師、早稲田大学長江流域文化調査隊員

─中国文明の起源を巡って注目を集める長江。その上流域にある四川省の宝トン(ほうとん)遺跡を中心に、中国と早稲田大学の共同調査が進められている。現地調査や、中国の研究者を招いて最近開かれたシンポジウムなどから見えてきた「宝トン文化」とは。

 四川省は中国西南部にあり、長江の上流域に位置している。西はチベット高原に連なり、全体に山がちだが、中央部はなだらかな丘陵が続く盆地となっている。 ここは「四川盆地」と呼ばれ、西側には省都成都市があり、岷江が流れる。宝トン遺跡はこの成都市に属す新津県に位置している。
 早稲田大学長江流域文化調査隊は、近年四川省の古代文化について成都市文物考古工作隊・四川聯合大学など中国の機関と共同して調査研究を進め、宝トン遺跡についても昨年11月から12月にかけ日中共同で発掘調査をした。

 今は遺跡の大部分は水田となっている。だが、周囲を囲む城壁がはっきりと残り、遺跡であることは一目瞭然だ。城壁はは長軸で約1000メートル、短軸で600メートルにのぼる。
 宝トン遺跡は1960年代には発見されており、特に遺跡を囲む城壁は注目を引いていた。ところがこの時点では遺跡の年代は漢代か、さこのぼっても戦国時代と考えられていた。
 上限が戦国時代というのは、四川省が古代中国の中心である黄河流域からは遠く、文化的にも後進的な地域であり、城壁を持つ都市の出現が戦国時代後期の秦による征服以降だと考えられていたからである。
 下限については、城壁を破壊して後漢時代後期の磚室墓(レンガを使い墓室を作った墳墓)が作られており、城壁が後漢時代後期にはすでに廃棄されていたと考えられる。そうしたことから、漢代とされた。
 ところが、80年代に入って成都市博物館考古隊(現在の成都文物考古工作隊の前身)が、この遺跡で踏査を行い、城壁で戦国時代以前と考えられる土器片と小型の石斧を発見。これよって宝トン遺跡が戦国時代以前のものである可能性が浮上してきた。



●遺跡の全景(調査地点は中央部)

4000年以上前
 その後、発掘調査の空白期間が続いていたが、95年9月に成都市文物考古工作隊、四川聯合大学文学院、早稲田大学長江流域文化調査隊が成都平原における古代文化の研究を目的に共同調査を計画。その際、成都市文物考古工作隊が調査地として提案したのがこの宝トン遺跡だった。実際に遺跡を踏査して3機関ともこの遺跡の意義を認め、翌年96年11月の調査が決まった。
 外国の調査隊が中国国内の機関と共同調査をするためには、国家文物管理局(日本の文化庁に相当する)に申請をして、許可を受ける必要がある。そこで申請のための基礎資料を得るため、95年10月から11月にかけ、成都市文物考古工作隊・四川聯合大学文学院考古教研室によって宝トン遺跡の試掘調査が行われた。
 この調査の結果は誰もが予想しないものだった。すなわち出土した遺物の分析から、宝トン遺跡の年代が大きく遡り、今から4500年〜4000年前の新石器時代龍山文化時代と同じころと考えられることになったのだ。
 さらに、成都市文物考古工作隊は96年度初頭にかけて周辺の遺跡の踏査をおこない、よく似た遺跡を4ヵ所確認した。成都市におけるこれら新石器時代城址の発見は中国中の注目を浴び、96年度の全国考古十大発見に選ばれている。



●昨年の共同調査(写真はいずれも、成都市文物考古工作隊・
四川聯合大学文学院・早稲田大学長江流域文化調査隊提供)

都市の起源に迫る
 なぜ宝トン遺跡をはじめこれら城址群が注目を浴びたのか。これは近年中国で熱心に論じられている「文明の起源」と関係がある。
 中国における文明の形成は、考古学・歴史学界で最も関心が持たれている問題の1つだ。現在の考古学界では、紀元前3000年から2000年とされる新石器時代後期に中国社会に大きな変化があらわれ、そこに文明の明らかな萌芽がみられるという説が支持を受けている。
 この問題の検討にあたって注目されてきたのが、聚落遺跡における城壁の出現である。これは中国の都市には伝統的に城壁があり、従って城壁の出現と都市の形成には密接な 関係があると考えられていることによる。

 今回四川省で発見された新石器時代後期の遺跡はいずれも城壁があり、まさにこの都市の出現と密接にかかわる発見とだった。
 96年度の宝トン遺跡についての申請は国家文物局に8月に正式に認められ、調査は11月中旬から12月中旬にかけておこなわれた。
 この季節の成都市周辺は「成都の犬は太陽を見ると吠える」といわれるほど曇りの日が多い。秋も深まり、朝夕などかなり冷え込むようになり、「中国の西南部」といったイメージとはかけ離れた天候だった。
 発掘では隣接して中国側調査区と日本側調査区を設け、それぞれ責任を持って調査をする方法がとられた。ただしお互いの調査については遠慮することなく意見を言い合うことを原則とした。発掘が始まったときにはとまどうこともあったが、日が進むにつれお互いに相手の方法を認め、活発に意見が言える雰囲気になった。宝トン村の主婦や娘たちもアルバイトとして良く働いてくれた。

 今回の調査は、遺物や遺構の時間的な移り変わりをまとめる「文化編年」が目的だった。まず遺跡全体の測量ををおこない、中国における基準座標や海抜を基礎にして1000分の1の地図を作った。これに基づいて城址の中心に近い位置に試掘区域を設定し、375平方メートルを日中共同で発掘をした。成果について現在報告書をまとめている。今回の発掘による資料をもとに、四川省の新石器時代後期の文化として「宝トン文化」が中国側によって新たに設定された。
 なお、私たちの共同調査とは別に、成都市文物考古工作隊と四川聯合大学文学院は、遺跡内の数カ所で発掘調査をしている。これには環境考古学の分野で安田喜憲教授を隊長とする日本隊が参加しており、サンプリングをおこなっている。
 宝トン遺跡の自然環境を明らかにする上で、この調査は有効なものと考えられ、成果が期待される。が、安田教授が日本で発表された宝トン文化時期の「基壇」については、実際に発掘調査を担当した成都市文物考古工作隊と四川聯合大学は、その年代を漢代、性格としては墓葬としており、日本での昨秋の報道とは異なっている(本誌10月17日号参照)
 もちろん宝トン文化「基壇」がなかったとしても、数少ない新石器時代城址遺跡として の宝トン遺跡の意義を損なうものではない。

四川にも文明があった
 これまで四川省の古代文化は、他の地域に比べ後進的と思われてきた。だが、今回 の発見により古代文化の発展過程で中国の他の地域と比べても大きな差異がないことが明確になり、また四川省の古代文化が中国の中で孤立した存在ではなく、黄河流域、長江流域を含めた大きな中国文明の中に含まれることも明らかになった。
  早稲田大学長江流域文化調査隊は今後も継続して成都市文物考古工作隊、四川聯合大学と共同で調査研究をおこない、城址遺跡に代表される四川省の古代文化を解明していきたいと考えている。
 そのために当面は基礎的な資料の蓄積を図っていく計画だ。来年度は調査地点をやは 成都市に属する都江堰市芒城遺跡に移して、発掘調査をおこなう予定になっている。

※「この記事は朝日新聞社の許諾を受けて転載したものです。
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学術情報DB:早稲田大学 長江流域文化調査隊へ



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First drafted Fri Apr 25 3:41 PM JST 1997.